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ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

『紙の月』を見た


『紙の月』予告編 - YouTube

 

こんなことは、俺のような者が申し上げるのは、笑止千万を承知の上でのことだ。作品の感想を述べるということ、述べてブログに上げるということがどういう意識を俺にもたらすのか感じてみたいのだ。

 

女子銀行員が金銭を横領し、その使い道が若い男に貢ぐというものだったとする。同様の事件を起こした女たちの金の使い道が、殆ど同様のものであることに興味を持った作家が、それを小説にする。

 

その小説を映画化するとして、どのような始まり方をするのか、オープニングの選択肢は無限にある。その無限にある中から、この映画作者は、どうして彼女の高校時代の教室から始めなければならなかったのか。

 

学生時代の彼女が、父親の財布から抜いた金を、途上国の子どもへの寄付に充てていたということが、彼女の犯罪の背景にあるものとして、辻褄が合うと思ったからなのか。

 

その彼女が宮沢りえの容貌でなければならなかったということも、俺には腑に落ちないことのひとつだ。宮沢りえは美しい。濡れ場には年甲斐もなく目が吸い寄せられてしまう。しかし、なのだ。だが、しかし。

 

この映画の主役は、例えばオアシスの大久保さんにこそ似つかわしい。そして、その後に彼女がしでかす事柄は、やはり大久保さんであって、初めて拮抗するのではないか。

 

それがリアリズムだというつもりではない。

 

このドラマがピカレスク・ロマンとしての感動に至るためには(そして、製作者の意図はそこにあるように思えるのだが)、どうしたって、大久保さんの容姿・風貌が必要だったのだ。大久保さんを映しながら、宮沢りえの存在感を描き出すことこそが、「描き出す」ということではないか。俺はそう思いながらスクリーンを見ていた。

 

言葉足りず、語弊があることは充分承知の上で書いている。ご批正があるなら賜りたい。