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ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

かぐや姫の物語

 


The Tale of Princess Kaguya Official Extended Trailer (2013) - Studio Ghibli Film HD - YouTube

 

遅ればせながら、『かぐや姫の物語』を見てきた。妻と二人だ。夫婦50割引というやつで、この制度、夫婦である証明が必要であるわけではないから、「俺と一緒に行くと1000円で映画見られるぜ」って、どこかのおねえちゃんを誘う口実にすることが出来るとか悪いことを考えてしまった。

 

いや、しないけれども。するあてもないけれども。

 

さてこそ『かぐや姫の物語』なのだけれど、そもそもなんでこの映画を妻が見たいと思ったのか分からない。だって、竹を取るジジイが居るんだろ。野山にまじりて竹を取っていたら、根本光る竹なむ一筋あるんだろ。そのうつくしい女の子をがどんどん育って、育っていく過程で竹の中から黄金を見つけたジジイは裕福になって、育った女の子は都で評判、貴公子たちから帝から求婚されるけれど、やがて月に帰っていく。そんな話だろ?俺、知ってるぜ。

 

そう思って見ていた。正直寝ちゃったらゴメンって感じで。ところがゴメンはこちらの方で、夢中で見ていた。涙が止まらなかった。『となりの山田くん』でコケた高畑勲の白っぽい背景は、相変わらずで、さんざん酷評されたその空白が、この竹取の時代感覚には、すごくマッチしていた。

 

欠点と呼ばれるものは個性と言い換えることが出来るのだ。

 

そして、高畑勲は物語の主調低音に「距離」を見た。その距離は空間的なものに留まらず、時間的な距離、意識の隔たりという距離も含まれる。

 

言うまでもない「月」と「地球」、かぐや姫が「生まれ育った土地」と「都」、「竹取の翁という境遇」と「大富豪」、「娘」と「女」、あらゆる距離を人々は越えようとし、あるいは既に越えてしまっていたことに気付く。

 

とても越えることが出来ない距離を目前にすることはつらい。既に取り戻せない距離を越えてしまっていたことに気付くことはせつない。

 

そんなことを思いながら俺は涙をボロボロ流しながら、この「古典」に親しんでいたのだ。