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ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

切れたギターの弦から始まった芝居の話

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ギターの1弦が切れてもう半月以上経つ。替えの弦は持っている。それなのに替えていない。そんなことが今まであっただろうか。あったような気もする。そしてあった時は、やはり今と同じように、何かがどうにかしていたのだ。

 

そんな風に事柄から何らかの法則性を探しだそうとする。そんなものありはしないのに。弦は物理的な限界点を越えたから、切れるという形で状況に決着を付けただけだ。

 

こう書いていて突然思い出した。清水邦夫の『ぼくらが非情の大河をわたる時』という芝居は、「なんて予感に充ち充ちた便所なんだ」という台詞で始まる。

 

何故こんな何十年も昔の芝居を思い出したのだろうか。状況のムリヤリ感を雰囲気で丸め込むように生み出す言葉遣いが、ギターの弦が切れたことから何かを導き出そうとする自分自身に似ていると思ったからか?

 

そう言えば、学生の頃、好きだった女の子は演劇部に所属していて、この芝居を演じたのだったろうか?

 

高田馬場の東芸劇場への吹き晒しの階段を上がって行くと、ひょいと平田満が出てきた。俺の顔をジロッと睨んで通り過ぎた。花園神社では、紅テントの裏で四谷シモン唐十郎に笑いながら白粉を塗ってあげていた。谷中の銭湯柏湯へ第七病棟を見に向かっている時、ふと見上げたその銭湯の煙突に、劇団の旗がはためいているのに気付いた瞬間の胸のときめきは忘れられない。

 

どの劇場も狭くて人いきれでムンムンしていた。そしてどの劇場でも暗転した瞬間の意識の高揚を感じた。

 

ある芝居では前の席に楳図かずおが座っていた。次に見に行った芝居では俺の後ろに座っていたという偶然もあった。演劇部の女の子は、状況劇場の芝居を見ていたら、舞台から転げ落ちてきた根津甚八が「あたしの膝に乗って舞台に上がっていったの」と得意げに話していた。布のベルトに付着した血糊を見せながら。

 

あの時代の尻尾の端に掴まって見た芝居のこと、久しぶりに思い出した。あの頃の俺が持っていた憧れ、言葉の持つ繋がりを一度解体して自分にしっくり来るように再構成する作業への憧れも思い出した。その為にはどうしても肉体という核が必要なのだと思ったのだ。

 

ギターの弦は、もう張り替えた。