ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

制度改革へのささやかな提言

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昔からそう思っていた。ここへきてその思いをいっそう強くすること。

 

「敬語」は要らない。

 

「この国の~」という大所高所からものを言うつもりはないが、この国の至るところで感じられる制度疲労の最たるものは、「正しい言葉遣い」という縛りなのではないか。

 

そのベクトルから生まれる重層化した慇懃無礼、真綿で首を締めるという体の膠着状態を捨て去ることが、相当の風通しの良さを生むように思われる。

 

「いらっしゃいませ。◯◯へようこそ。…かしこまりました。ご一緒に☓☓はいかがでしょうか?かしこまりました。ご注文繰り返させていただきます。△と△、お飲み物に△のMサイズ。合計で780円になります。はい、お預かりいたします。5000と80円からでよろしかったでしょうか。それではお釣り、大きい方から1000,2000,3000,4000円と細かい方、300円のお返しになります。それではご注文の品物は列のこちら側でお待ちください。ありがとうございました。また◯◯へおこしください」

 

これ鬱陶しくないか?サービスってそういうことなのか?

 

「Hello」と挨拶をし、「OK」と注文を聞き終わって「Next! 」と列の後ろのヤツに声を掛ける英語圏にある同系列店の三言の爽やかさと、日本風の丁寧さとは、「ファースト」フードという空間で示す「サービス」のモデルとしてどちらがすっきりしているのか。

 

電話を掛けても「こんにちは、◯◯商事△部門担当☓☓が承ります」ということになる。面倒くさくないのか?言っている方も言われている方も。責任の所在をはっきりさせるって、そういうことなのか?

 

アメリカのある学校では、校是として「1日に4回以上子どもの名前を呼ぶこと」というものがあるのだという。生徒への丁寧なアプローチを具現化するための切り口として、その発想は在り得るだろうし、実際に必要なことだろうと思う。

 

しかし、それが「◯◯クン」「☓☓サン」がジェンダー論的な意味合いで否定され、どちらも「◯◯サン」で統一するようになり、それに対する不全感が職員室に潜在的に沸々としているらしいこの国の現状では、「丁寧なアプローチ」として機能することはないだろう。そんなことひとつ取っても、沢山の夾雑物が澱のようにくっついてしまっているのだ。

 

そういったものを一度全部捨ててみたい。

 

伊丹十三のエッセイに、学校で性教育を教えることとイギリスの学校で生徒も教師もお互いをファーストネームで呼ぶことを関連付けて説明しているものがあった。その環境で失われたものは年功序列的な予断による敬意、生まれたものは教えられている素材への集中だ。

 

女たちよ! (新潮文庫)

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まずは、上に立つ者から範を示し、タメグチで部下なり後輩なりと関わられたいと提唱しよう。俺はそこから始める制度改革というものを提起する。そんなことで失われるような種類の「尊敬」にしがみついているからダメなんだ。

 

敬語というオブラートを捨てて、剥き出しになった論理なり欲求なりを吟味するのか、それとも現状を維持して磨きをかけ、誇り高く没落して行くのか。そんな大言壮語を語ってみる残暑厳しき折。