ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

学校という枠の外で

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中学1年生から高校3年生までが一堂に会して同じ時間を過ごす。もっと言うと大学生も社会人もスタッフとして居る。それは俺が以前からしばしば言及してきた静かな湖畔でのことだ。中高生が2週間のキャンプを行う。

 

そこで出来ることは、水泳・ボート・ヨット・カヌー・カヤック・アーチェリーなどだ。但し体育会系の合宿のように、それを二六時中行なっているわけではない。大方の時間はブラブラしている。午前中に何かひとつ、午後にグループでひとつ、個人でひとつ。えい、分かりにくい。

 

参加者は5〜10人程度のグループ単位で生活をする。基本的は学年単位だけれど、中1から中3までがひとつのグループとか、中3から高3までとか、縦割りになることもある。

 

そのグループには大学生が一人グループリーダーとして入る。午前中の時間は各自でその年に身につけたい種目をひとつ選ぶ。例えばヨットだ。そうすると毎日10時から12時までの時間は、ヨットに乗る練習をする。

 

午後1時から3時まではグループで決めた種目を行う。例えば水泳だ。競泳的にガシガシ泳ぐというよりは、桟橋の上で寝そべったり、寝そべっているヤツを落としたりとかそんな時間が主だ。

 

3時から夕食まではフリーな時間だ。ここがブラブラする時間としてのメインだ。ブラブラしているヤツ同士話しがまとまれば、一緒にボートに乗っても良い。そここに転がっているギターを手にしてAジャム・セッションをしても良い。低くオレンジになっていく太陽を眺めながら来し方行く末に思いを馳せても良い。

 

そんな場所だ。そこに俺は魅力を感じて自分自身中学から高校、大学と毎夏通ったのだが、その魅力の核になっていたのは何だろうかと考えてみた。思いは千々に乱れるのだが、その1として思いついたのは、ルールよりマナーが優先されていたからじゃないだろうかということだ。

 

学校という場所は既にして商業主義の中に取り込まれている。経済の原理から、マジョリティを標準化したハードルを設定する。「中学生らしく」「高校生らしく」というヤツだ。その標準化から外れた者は、色々な意味で軋みを感じる。

 

先生たちが根底の一部に教育理念だけではなく、経済原理があることを隠蔽しようとすると欺瞞になるし、欺瞞を押し通そうとすると生徒たちから反発を受ける。畢竟「校則」を金科玉条化せざるを得ない。そこはマナーという曖昧なものより、ルールが優先される。

 

ある時、静かな湖畔にハードモヒカンのヤツが参加してきたことがあった。尖った目付きで四周を睥睨し、誰とも話そうとしなかった。

 

そこには、例えば不登校の中学生を抱えた保護者が、なんとか社会性を身につけるよすがにと参加させることがある。カウンセラーから紹介されて参加するヤツも居る。ハードモヒカンがそうだったかどうか知らないが、誰もが、ま、何かあるんだろうなと思っていた。思っていたが、誰も彼のモヒカンについて直接言及はしなかった。

 

俺も含めて何故それをしなかったかと言うと、マナー的にそれはどうかと思ったからだ。

 

日が経つにつれ、刺さるように突き立っていたモヒカンは、静かに後ろ頭に流れて行き、地肌が露出していた部分の毛も伸びて行った。彼の苛立ちが慰撫されていく様子を象徴しているようだった。

 

そうなって初めて「お前さぁ、あのモヒカン、何だったの?」となる。なるとしたら、だ。俺は聞かなかった。もうその頃にはどうでも良くなっていたからだ。

 

俺たちを包む自然というフィールドの中では、日常の残滓はどうでも良くなる。その自然のフラグメントとしては、朝靄の中を通り抜けてくるキツツキが木を啄む音や、木漏れ日やさざなみだ。

 

学校という枠組みが必要ではないとは思わない。社会性を持って組織的に行動するすべを学ぶ場所として、今のところ学校以外に適当な場所はないように思う。しかし、その枠の外で、例えば全く別の学校に通う、高校3年生のアニメ好きと中学1年生のテニス部員が流れ星を見上げながら宇宙の果てに思いを馳せるような出会いは、貴重だと思うのだ。

 

その静かな湖畔に限らず、学校という枠組みの外に、子どもたちが心地良い場所を見つけられると良い。大人たちがすべきことは、その手助けであっても良い。そんなことだ。