ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

中間報告…これはね

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大抵の論の展開にはパターンがあるように思う。例えば、過去と現在を比べると、過去は一概に否定出来ないものとなるだろうし、西洋と東洋との比較となれば、「東洋の包括的な世界観にこそ膠着した現在からの一点突破が在り得る」という論旨となる。

 

余程のことがない限り、現在100%礼賛の文章というものはないし、西洋的科学文明礼賛の文章もない。あるとしたら、現在の日本文明批判の文脈の中で、「欧米では…」ということが在り得るだろう。

 

その同じベクトルの中で右派と左派がいる。

 

また、論じ方の作法としてはまず一般論を述べ、「一般的にスパゲッティというのは、爽やかな風のそよぐテラスで、上等のワインと共に頂くのを良しとする」と大方のご機嫌を伺ってから「しかし」と続ける。「しかし、トイレの便座の上に乗せたペペロンチーノを皆で囲んで食べたあの美味しさをどうやって説明したら良いのだろう」と持っていく。

 

その一般論部分がなくて「トイレで食べるスパゲッティ、最高!」となると、唯のヘンテコリンな奴として排除される。だから文章の冒頭部分にしばしば説明される一般論は「そうね、そうね、そうなのよね」という、ストレートに言うならば、おもねりの相槌だ。そして然る後に「ただね…」と自分の意見が顔を出す。

 

そんな風に「小論文講座」「文章読本」というもので教わる。だとするとそれはコミュニケーション論ということなのだろう。

 

でも、なのである。

 

実際は、なのである。

 

この国の言語は「いや、ほら、ここでは、ちょっと、あれだから」で、何かを相手に伝えてしまう稀有な体系を持っている不可思議なものなのだ。逆にそこに美学を見出したりもする。「花は盛りを月は隈なきをのみ見るものかは」というやつだ。俳句の何やらを持ってくることもありだろう。

 

論じるための作法を説き、論じ尽くさないことの美学も説く。結論は「自由にやれ」ということなのだと思う。自分の中に穴を掘り、掘り下げていくことが出来ていれば、それが言葉を連ねるということの意義なのだろう。論を展開し、説得するような技術は後から幾らでもついて来る。ステレオタイプに言葉を並べるよりは、鼻白ませるような言葉の方がマシなのじゃないか。

 

ジョン・レノンの「自分の体で線を引く。自分が死ぬまで引き続ける」という言葉を思い出した。

 

文章を書くことは、自分の中に穴を掘ること。その過程を忠実に記録するということしか俺には出来ないし、それをする。