ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

朝、交差点を渡っている時にi-podからマイルス・デイビスが流れた

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今朝、職場へ行く途中、i-podをシャッフルモードで聞いていた。聞きなれない曲がかかって、あれ、良いなぁこの演奏…と思ったのだ。自らの見識のなさを顕わにするのだが、そこでポケットから取り出して画面を見ると、マイルス・デイビスの演奏だった。

 

見識のなさというのは、マイルスの演奏なんざぁ、徹底的に聴きこんで、題名から共演者、録音スタジオから何テイク目かぐらいまでサッと分かるようでなきゃジャズ好きとは言えないという大向こうの存在が(会ったこともないのだけれど)意識されるからだ。

 

にしても、その俺ですらが感じる演奏の魅力って何なのだろうか。共演者だってとても上手い人たちに違いない。楽器が上手い人は、やはり星の数ほどいるのだろう。そんな中でもマイルス・デイビスの音は、例えば何が違うんだろう。

 

360分の1拍早いとか遅いとかいった絶妙のタイム感とか、天性の音色とかそういうことになるのだろうか。もはや練習量が云々とか上等な楽器を使っている云々という域は越えているような気がする。

 

マイルス・デイビスは、クリフォード・ブラウンの演奏を聞いて、「あんなふうには俺は吹けない」と、ミュートを多用した演奏法に傾斜していったと聞いたことがある。そのレベルでのそのせめぎ合いというのは、物凄いものだなぁと唯、感心するばかりだ。

 

アイルランドの諺に「ダマの出来ないプディングは存在しない。だがあるプディングは他のプディングより味が良い」というのがあるそうだ。ナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』に書いてあった。

 

石川淳の「文学というものは、命掛けでやるような安っぽいものじゃない」という言葉も思い出した。

 

命掛けになればプディングの味が良くなるというものでもないのだ。かといって生のまま生まれっぱなしのままでマイルスがマイルスになったというわけでもないだろう。クリフォード・ブラウンの演奏を聞いた時の彼の懊悩は、計り知れない。それこそマイルスの孤独は計り知れない。計り知れないと呟くことすら傲慢に思えてくる。

 

俺たちは、今はもう失われたその音を、その音の欠落に囲繞して、CDなりレコードなりをよすがに「あぁ、良い音だったねぇ」と慨嘆することしか出来ないのだろう。

 

ありがとうと、その音にありがとうと言うのだ。仮にマイルスがその孤独と引き換えにあの音を出してくれたのだとしたら、俺たちは金と引き換えに礼を言う。そして金しか渡せないことに慚愧の念を抱く。

 

挙句の果てに、夜郎自大にもマイルスに「ありがとう」と言ってもらえる何かが自分にないか探してみる。