ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

あひみての…

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高校の頃、古文の授業で「逢ふ」「見る」は「結婚する」と訳すんだと教わった。そうして平安時代の結婚は「妻問い婚」と言って、男性が女性のもとを訪れるのだとも。

 

高校時代の古典教師は確かにそう教えてくれた。彼女が歌うような調子で、過去の助動詞「き」の活用「せ・◯・き・し・しか・◯」を「せぇまる、きぃしぃしか、まる」と唱える調子を今でも覚えている。

 

以前ここに書いたことがあるが、俺は母校で教育実習をした。その時の指導教官も彼女だった。彼女は相変わらず「せぇまる、きぃしぃしか、まる」と唱えていた。そしてその声を聞いた俺は、相変わらず(不謹慎にも)睡魔に襲われた。

 

高校生の俺も彼女の説明に「ふーん」と思って、そのまま思考停止したものだ。平安時代の人間関係というものは、分かったようで分からないものとなり、「教科書」の中に閉じ込められた。

 

そもそも古典なんて面白くもなかったから、だから何なんだっていう感じだ。教わったまま、「いまひとたびのあふこともがな」は「もう一度だけ結婚したいのです」と疑いもなく口語訳していた。訳して「なんだそりゃ?」であった。

 

「みしやそれともわかぬまにくもがくれにしよはのつきかな」は「結婚したのかどうかも分からないままに、雲に隠れてしまった夜中の月であることよなぁ(詠嘆)」だからチンプンカンプンで、隔靴掻痒も甚だしい。古典世界というものは、厚さ1メートル30センチくらいの半透明なバリヤによって隔てられていた。

 

今にして思えば、勘の悪い少年であったことよ。

 

その少年は、やがて何かの本で「…『逢ふ』『見る』は、男女が性的な関係を結ぶこと」と知る。

 

だとしたら「あひみてののちのこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり」は、「セクースをした後のこの気持に比べたら、物思いにふけっていたように感じていたあの日々は何ほどのものではないなぁ」ということだし、「めぐりあひてみしやそれともわかぬまにくもがくれにしよはのつきかな」は、「バッタリと出会った後すぐのセクースはあなただと分からないまま居なくなってしまって、まるで雲に隠れてしまった夜中の月みたいじゃないかぁ」ってことだ。

 

俺の心のウロコが落ちた音が聞こえた。思考停止したままの違和感が一致して、一致したまま崩壊した。なるほど、そういうことだったのだ。

 

知らなかったのは俺だけだったのか?暗黙の了解としてみんな飲み込んでいたことなのか?だとしても、俺のような察しの悪い生徒がいるのだから、直球を投げてくれる先生がいて欲しいものだった。

 

 「あらざらむこのよのほかのおもひでにいまひとたびもあふこともがな」は、「もうすぐ死んでしまうこの身からすれば、あの世への思い出に、もういちどだけ」…もう良いだろう。

 

なんだ、それなら良く分かる。良く分かる。身も蓋もないその気持ちが。その身も蓋も無さ具合に関してだけは、半透明のバリアが崩壊し、和泉式部への共感が生まれる。敦忠へも。時空を隔てて繋がる身も蓋も無さ。

 

高校生は表向きそのような行為をしてはいけないことになっているから、それを前提とした授業をしなければならない。だからこそ…伝統的に、「結婚」と教えるように、ま、あながち間違いじゃないし。ということになる。

 

その大人の知恵に感心すると同時に、そこにしれっと紛れ込んでいる詐術性が腹立たしい。太宰治の小説に、新学期もらった参考書に解答が付されていることを発見して「無礼だな」と呟くってのがあった。それに似た感情かもしれない。

 

日本中の受験生諸君へ。

 「逢ふ・見る」は「セクース」として現代語に直すこと。「セクロス」でも可。