ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

ストレスフリー

生まれつき臆病な俺は、旅行することがあまり好きではなかった。自分の知らない所に行って、知らない人たちと、知らない生活習慣を共にするということを想像するだけで、面倒くさいし、自分が作り上げた「自分」という領域に、ずかずかと入り込まれるような気がして、できることならいつものような朝を迎え、いつものような1日を終え、いつもの慣れ親しんだ枕で、いつものように眠りに就きたいと思う。傾向としてはそれがベースだ。

 

そんな俺は、あるフランス人作家の「旅は人を賢くしない」という言葉に「そうだそうだ」と深く頷いたりしていたものだ。

 

いつもと全く違う生活を、日常生活に対して「非日常」と言う。「非日常」には、特別な時間が流れる。日常生活のなかでは、別にどうってないことも、「非日常」の中では輝いたりする。スキー場で知り合った異性と町場で会ってはいけないと言われる所以だ。

 

昔、ベルギーで働いている友人の家に遊びに行った。彼の家の庭に寝転がってワインを飲みながらBBQをした。コンロに火を熾し、フランクフルトソーセージを焼いた。その時、これほど美味しい食べ物はないんじゃないかって思った。その後、日本で同じようなソーセージを見つけては、同じように焼いて食べて見るのだが、勿論、同じ味はしない。

 

あの友人が居て、ヨーロッパのあの暮れなずむ空があって、あの空気があって、そこで初めてあの味が生まれたのだ。

 

だからと言って、こうやって懐かしむためだけに人は旅をするのかというとそうでもないような気がする。 

 

生まれつき臆病な俺でも、必要に迫られて、知らない場所で知らない人たちとくらさなければならない場合がある。というより、振り返ってみると自分がそんな性格だからっていうのがあるのかも知れないが、毎日の生活が当たり前に過ごせるようになってくると、そのパターンを破りたくなってしまうような気がする。

 

都内に住んでいて、大学も都内なのに、だからそんなことする必要もないのに、親の家を出て下宿し始めたのは24歳の時だった。

 

バイト暮らしの毎日だったから、バブル経済真っ盛りの世間の動きの影響から最も距離のある生活だった。テレビもなく風呂もなかった。ゴロゴロとマンガばかり読んでいるような生活だった。

 

 次のバイトが見つからなくて、面接をあちこち受けるんだけどなんだか全部断られて、やがてどうにもこうにも食べるものがなくなって、ちょうどその頃実家の親とは喧嘩していて、困り果てた俺は、恥を忍んで近所のジャズ喫茶のマスターにお米一合でもいいから、分けてもらえないかって頼んだりしこともあった。

 

今もし出来るならば、ありったけの金をあの頃の自分に持って行ってあげたい。

 

あの頃のそんな日々がまるごと今の俺にとっての「非日常」となっているようだ。

 

ともすると「今」が全てになってしまって、そこから別の自分なんて想像もできなくなってしまう。毎日毎日同じ事の繰り返しで、毎日抱える不安も同じで、その不安は決してなくならないような気がしてしまう。

 

でも「今」の自分のすご隣に別の自分がいる。それを俺の中にある「可能性」と呼ぶことはできないだろうか。毎日の習慣、思考のパターンを少し変えてみるだけで、その「可能性」はひょっこり芽を出すのかも知れない。

 

もう俺には分かったことがある。初めてのことをする時に感じる不安ってやつにすごく怯えてしまうけれど、それはすぐに慣れるもんだって。だからその不安なんてちっぽけなもんだって。しばらくたって振り返ってみると、大抵のことはなんとかなった。(ならなかったことなんてなかったんじゃないか?)今思うとちっぽけなどうってことない不安に、あんな怖がってたなぁって、笑い話に出来るようなもんだって、知ってる。

 

だからもう何処へでも行ける。

 

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