ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

Jerry Garciaのこととか、母のこととか

一緒にラムネ堂に行った友達がまだ中3だった頃のある時「今だったら、フ―か、オールマンか、デッドを聞きたいな」って呟いた時に、初めてその名前を知ったThe Grateful Dead。俺が知っていたのはThe Whoだけだった。

 

そのThe Grateful DeadJerry Garciaが「俺たちはずっと遊んでいただけだよ。」って、ヒッピームーブメントを支え、カウンターカルチャーの雄として鳴らしていたその当時に言っていた。

 

 自分たちの行為、方向性を言葉で語ってしまうと、その言葉がフレームになって、枠組みになって、身動きが取りにくくなってしまうことがある。「俺たちは自由を目指しているんだ」っていうその言葉によって、自分たちの行動がその「自由を目指す」という方向性によって制限されてしまう。それは不自由なことだ。

 

だからガルシアは「遊んでるだけだよ」という表現しかできなかったんじゃないだろうか。

 

チャールズ・A・ライクとの対談『Garcia: A Signpost To New Space』(邦題『自分の生き方を探している人のために』)をポツポツ読み始めている。まだ読み始めたばかりだから、ライクの序文の部分。そこに彼の言葉が引用されてるんだ。

 

"When I left the straight world at fifteen, when I got my first guitar and left everything I was doing, I was taking a vacation; I was going out to play and I'm still playing."

「15歳で最初のギターを手に入れて、それまでやっていたことをやめて、まともな世界を離れてから、ずっと遊び。演奏するために飛び出して、そのまま今も演奏してる」

 

”vacation"を「ずっと遊び」って訳すのは無理があるかな?

 

チャールズ・A・ライクは『緑色革命』を書いた人。アメリカ人でもない俺がアメリカの世代論を夢中で読んだのは、やっぱり「アメリカ」っていう病にかかっていたからなのかもしれない。外国への憧憬の原点には、「アメリカ」があるのだと思う。

 

でもアメリカってまだ行ったことがないんだけどね。

 

この邦題を誰がどうやって決めたのか分からないから、軽はずみなことは言えないのだけれど、「俺たちはずっと遊んでいただけだよ」ってスタンスがJerry Garciaの在りようなのだから、そこに「生き方」とか「探す」って視点を入れちゃいけないんじゃないだろうか。

 

そう言えば、昔、高校生の頃、部屋の壁にJerry Garciaの顔写真を切り抜いて貼っていたんだ。それを見て俺の母親が「なんだ、この汚い男は?」って尋ねた。

 

おでん屋の娘で、およそカウンター・カルチャー、サブ・カルチャーなんてものには縁遠い母に、これこれだって教えると、「ふうん…なかなか良い目をしてる」って言ったんだ。

 

知り合ったばかりのアメリカ人に「Deadとかも、たまに聞くよ」って言ったら、身を乗り出して「お前、Dead Headなのか!?」って、嬉しそうに自分のDeadのコンサート体験なんかを話してくれた。The Grateful DeadのファンのことをDead Headって言うんだ。

 

彼が行った野外コンサートでは、演奏の途中から雨が降り出して、その時、The Beatlesの「Rain」を演奏してくれたんだって。

 

Rain, Rain, Rain, I don't mind...ってね。

 

 


Grateful Dead - It Must Have Been The Roses - 10 ...