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ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

ホープ軒のラーメン

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最初は誰に教わったのか覚えてはいない。もうずっと昔のことだ。食レポとか、食べログとか、そんな言葉の気配さえない頃、せいぜい高校の近くではどこのラーメン屋が美味いとか、どこに行けばこっそりタバコが吸えるかとか、そんなことが口伝えで広まって行く程度の頃だ。

 

大学に入り、少しずつ世界が広がって来ると、どこそこの何々が美味いぞなんてことが話題になるようになった。アジャンタのカレーとか、池袋のベトナム料理とか、誘われるままに行ってみた。

 

そんな中のひとつがホープ軒のラーメンだった。背脂がいっぱい乗っていて、冬場にぼやぼやしているとその脂が固まってラードのようになっていく。ネギは自分で掛ける方式で、給される水にはジャスミンの香りがついていた。

 

それからずっと、間は開くことがあっても、通い続けている。五年前に一度、そしてまたつい最近に行った。

 

こちらの方の体力は変わっていても、ホープ軒のラーメンは変わらない。美味いぞ。

それからの『豊穣の海』

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結局、図書館で借りて『豊穣の海』は「春の雪」を読み始めた。読み始めてまだ数十ページだけれど、ここまでの感想を述べる。

 

白状すると、俺は三島由紀夫の小説はあまり読んだことがない。『小説家の休暇』を始めとして、その評論は随分と読んで、感銘を受けた。こんなに頭が良い人は見たことがないと、俺が言うのも烏滸がましいが、そんなふうに思って読んでいた。

 

そして、今、こうやってその小説を読んでみると、小説というのは改めて恐ろしいものだと思う。そんなに頭の良い、骨組みのすべてを透徹な理論で組み上げて行くような人でも、小説を書くと、こんなにも…なんというのだろう…露わなのだ。恥ずかしいほど露わに、自分を曝け出してしまうのだ。

 

どこがどのようにという指摘は、俺はしない。言葉の選び方のひとつひとつ、そこから指し示される方向性、進んで行こうとする先、そういった諸々の全体から滲み出てくる彼の恥部だ。

 

三島由紀夫が手綱を取り、ねじ伏せているはずの「小説」は、それ自体で、彼の思惑を離れて、自在にその活動を始めている。ここから見るとそんなことが感じられてきた。

 

恥ずかしくて、だからこそ「人」というものが立ち現れるのだ。俺は、小説というものの底知れなさ、奥深さを感じている。

 

 

豊穣の海

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三島由紀夫の『豊穣の海』が読みたくなった。折角だから本字の歴史的仮名遣いで読みたいと思った。となるとおそらくは全集を手に入れるのが最も手っ取り早いのではないか。

 

だからと言って、6000円以上する本を、ほいほいと買い込むだけの余裕はない。かといって図書館で借りたとして、2週間で読み切る自信はない。それに兼好法師も「家は借りて住め。本は買って読め」と言っている(らしい)。

 

以前に読んだ時は、新潮文庫で読んだ。家にもそれしかない。ゆっくりとこの「読みたい気持ち」を育てて、その間に金を貯めよう。

 

何故に今更『豊穣の海』なのかは秘密だ。

 

あと何回

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日差しが夏のものになってきた。あと何回夏を迎えることができるのだろう…と書いて、その後に、「大英帝国は」とか、「EUは」とか、「この国は」とか、とにかくなんでも大言壮語な名詞を付せば、なにやら批評的なことを言ったような気になることが分かった。

勿論、この詠嘆の対象を俺自身に向けることはない。俺は「首が飛んでも動いてみせるわ」という立場だからだ。

バベットの晩餐会

『バベットの晩餐会 デジタル・リマスター版』予告

 

随分昔にこの予告編を見たような覚えがある。いわゆる「名画」との評判に、おそらくは当時は偏屈な時期だったのだろう、そのまま見送った。

 

いきつけの名画座ジャック&ベティで公開しているというので見に行った。

 

見るからに北国の吹きすさぶ海岸線、そこに貼り付いたように暮らす一握りの箱庭のような集落、まるで書割のような家が、それでも石造りの堅牢さがヨーロッパらしさを醸し出す。

 

その村に住む美人姉妹と家政婦のバベットの物語である。牧師の娘である美人姉妹は節制・禁欲を象徴する。補助線として引かれる垂線は、人生という時間軸と交差する。家政婦はパリからやってきた。政変に追われてパリから逃げてきた彼女は、補助線としての人生に運命という彩りを添える。その彩りは、姉妹それぞれに恋心を抱く、士官と歌手の想いと重なる。

 

追われたバベットは姉妹に拾われて、家政婦として働いている。そこではなんの色も出さない。ひっそりと暮らしている。その彼女が宝くじを当てる。当たった1万フランを使って、世話になったお礼に晩餐会を開くという話だ。バベットはパリの有名レストランの女性シェフなのだ。

 

欲望を神に預けた姉妹と、村の人々は、ご馳走をも悪魔の誘惑のように退けようとする。だから「食事のことを話題にするのはやめましょう」と申し合わせる。垂涎の品々が目の前に並び、極上のシャンペンやワインも供される。その晩餐会の場に、かつての士官が功成り遂げて参加している。

 

食欲も色欲も生きるということにつながっている。ひっそりと人々は生を肯定する。生きることは、それだけで良いことではないか。「自らの選択の可否を人は思い悩むけれど、全ての選択は良いものだ」そんな台詞がなかっただろうか。

 

年老いた士官は、やはり老女となった姉に「あなたのことを思っていました」と告白する。そして「あなたもでしょう」と訊ね、彼女は首肯する。このやるせなさと絶望と希望と同時に立ち現れる十全感はなんだろう。

 

どんなものであれ、人が望みを叶える、完璧に叶えるということが不可能なのだとしたら、生きるとは畢竟そういうことなのか。

 

であるならば、それはそれで良いのだ。一生に一度でも極上の食事とワインは供される。その時には満天の星があるのだ。

 

そんなことを考えた。

 

 

 

夏が来る

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夏が来る。今年も梅雨に入り、そしてそれが開けると夏になる。

 

単車に乗って夜の軽井沢を走り抜けた夏だ。波止場で咥えたタバコを海に吐き捨てた夏だ。

 

あの海の向こうまで行こうとして果たせなかった夏、俺はあと何回こうやって夏を見送るのだろう。

 

夏と海が同義だとしたら、生は緑なのかも知れない。

 

そんな嘘をついてみた。

 

 

緑の中で過ごす

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「自然を守る」という言葉に違和感を覚えるのは、森のなかで生活をする時だ。年に何回か仕事がらみや、自分の趣向に従って森の緑に囲まれて生活をすることがある。

 

森の…あるいは木々のパワーは圧倒的だ。よく遠足やハイキングなどの時、「長袖・長ズボンの着用を」なんて言われた。そしてその時は一笑に付した。だってこの暑さの中、長袖や長ズボンなんて汗だくになってしまう。そしてほんの1時間の山歩きで後悔するのだ。

 

ツタウルシに触れ、マムシグサに触れ、ヤブ蚊はともかく、ブヨに刺され、ハチの羽音に怯え、人の皮膚の無防備さ加減にようやく思い至る。汗をかく不快感など何ほどのものでもない。

 

人は緑の中に在って無力だ。「守る」という傲慢さは、森のなかで過ごしたことのない人の賢しらで、その上っ面の知恵の脆さを圧倒的な存在感で森は打ち崩す。人は滅びても森は残る。自分自身で栄養を創りだす存在に、捕食性の俺たちが叶うわけがない。やつらは光と酸素、あと湿り気があれば生き延びるのだ。

 

森の前に俺は頭を垂れる。

 

年に何回かそうやって俺は心を洗われる。