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ジグ・ノート

備忘録のような形でつらつらと…

シン・ゴジラ

映画 雑感


『シン・ゴジラ』予告

 

俺にしては珍しいことが2つ。俺の話などどうでも良いのだということは、充分承知している。しかし、なのだ。凡百の俺の中のひとりである俺が、公開すぐに映画を見たのは、そして見終わって、興奮しながら、憑かれたように映画のパンフレットを買ったのは、若干50数年の生涯の中で2度しかない。

 

最初の、そしてこれまでの最後だったその作品は、ザ・バンドの『ラストワルツ』だ。俺は友人と夜を徹して並んで公開を待った。先着50名様に、ザ・バンドのギターリスト、ロビー・ロバートソンのサイン入り写真が配られるというのを聞いたからだ。

 

見終わってパンフレットを購入した。しかし、それは友人と徹夜してまで見た映画だという、ある種のピア・エフェクトもあったろう。1978年公開…40年近くも前のことだ。

 

しかし、『シン・ゴジラ』である。俺は初代ゴジラ世代ではない。俺の記憶にあるゴジラは、ミニラを尻尾で遊ばせているソフィストケイトされた(皮肉だが)姿だ。

 

庵野監督にはこれまでにも何度か肩透かしを食わされている。途中までのテレビ放映の『エヴァンゲリオン』の余波で、最新作まで見てきたが、スッキリした例がない。

 

この『シン・ゴジラ』を公開翌日に見たのは、その日が日曜日という休日だったから、以外の深い理由もない。時間帯がちょうど良かったのと、そうは言っても見続けてきた庵野監督の新作であるからだった。

 

勿論、俺にとって、その凡百の俺の中のひとりに過ぎない俺にとってという限定を付けて言うのだが、傑作だ。何度も何度も涙を拭いた。そして当たり前のように、初めて映画を見た少年のようにパンフレットを買っていた。感動しただけでは、見ただけでは足りなかったのだ。

 

作り手として、あまりに多くの自由を手に入れたあまり空中分解しかけているのが、エヴァンゲリオンだとしたら、(百万言を費やしたとしても、少なくともドラマとしては、明らかに破綻しているだろう)大きな不自由な「ゴジラ」という枠組みと格闘することで、何をすべきなのかがはっきりと見えている。そのはっきりと見えていることで、この映画には、映画の魅力であるハラハラもドキドキもワクワクもイライラも、そして快哉を上げる瞬間も、全てが揃ったのだ。

 

それを傑作と言うのではなかったか?


そしてこの方法論が、即ち、これまでの全てを、スッとぼけてなかったことにし、映画として完結させるというやり方をエヴァの最新作に援用するとしたら…楽しみだ。

 

 

カラスが啼く

雑感 音楽

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ノドの奥から絞り出すような声で「朝にカラスの鳴く時は夜に必ず人が死ぬ」と歌ったのは三上寛で、彼の歌を明治の学祭で聞いたことがある。その歌詞の後には、臆面もなく次のように続ける。

今日もどこかの六十ジジイが

生娘抱いて腹上死

 

このままだったら、ただの露悪趣味だが、このスタンザの最後に至ってイメージは次のように反転する。

 

赤く開いたくちの中

ヤニで汚れて金歯が光る

投げ捨てられたステテコにゃ

娘が飛ばしたアゲハ蝶

 

「アゲハ蝶」は、地獄絵の片隅に描かれた仏のように、全てを救済する。

 

その学祭の時に、やはり聞いたのは「なかなか」という歌で、

 

吉野家の牛丼はなかなかに美味い

すると牛丼よりも「なかなか」に感動している自分に気づく

「なかかな」の歴史は古いものだ

 

そんなふうに語り、俺はくすくす笑いながら聞いていた。この歌も「なかなか」から「いちいち」へと続いて行き、俺のクスクスを誘引しながら、やはり突然「ところで風だが」と止揚される。

 

ところで風だが

風が吹いていた

 

その反転を当時は「情念」と呼んで持ち上げた。今にして思えばAmをギターで押さえることへの照れ隠しだったのではないか?

 

ふとそんなことを考えた。窓の外には、子どものカラスが啼いている。

ジャック・ダニエル or Jack Daniel's

雑感

 

ジャックダニエル ブラック 700ml

 

 

 

友人のアメリカ人は、日本に住んで長い。だから「マクドナルド」って母音をはっきり発音して、「日本語」で言うことができる。「すごいな」ってみんなで褒める。英語を日本語で言うって難しいよねって。

 

その彼が挑戦的な顔をして「じゃあ、英語で言ってご覧」というので、かなり緊張して、あるいは意識して「Macdonald」と言ってみた。すると彼は笑いながら「違うよ、Macdonald'sだよ」と言った。

 

アポストロフィーSを無視するのは、日本語にその習慣がないからか?

 

そう言えば、昔、知り合ったある女の子は、英文科を卒業したお嬢さんだったが、アポストロフィーのことを「アポストロフィーエス」というのだと思いこんだまま卒業なさってしまったという。ある出版社に勤めた彼女は、文章校正をしている時に「アポストロフィーエス、エス」と読んで「なんだそれ?」というやりとりから、その思い込みが発覚したのだそうだ。

 

それはともかく、ジャック・ダニエルが千円台で買えるようになるなんて、良い世の中になったもんだ。俺が高校を卒業した時は、1万円札がないと買えなかったんだ。

 

乾杯。

 

 

ホープ軒のラーメン

雑感

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最初は誰に教わったのか覚えてはいない。もうずっと昔のことだ。食レポとか、食べログとか、そんな言葉の気配さえない頃、せいぜい高校の近くではどこのラーメン屋が美味いとか、どこに行けばこっそりタバコが吸えるかとか、そんなことが口伝えで広まって行く程度の頃だ。

 

大学に入り、少しずつ世界が広がって来ると、どこそこの何々が美味いぞなんてことが話題になるようになった。アジャンタのカレーとか、池袋のベトナム料理とか、誘われるままに行ってみた。

 

そんな中のひとつがホープ軒のラーメンだった。背脂がいっぱい乗っていて、冬場にぼやぼやしているとその脂が固まってラードのようになっていく。ネギは自分で掛ける方式で、給される水にはジャスミンの香りがついていた。

 

それからずっと、間は開くことがあっても、通い続けている。五年前に一度、そしてまたつい最近に行った。

 

こちらの方の体力は変わっていても、ホープ軒のラーメンは変わらない。美味いぞ。

それからの『豊穣の海』

雑感

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結局、図書館で借りて『豊穣の海』は「春の雪」を読み始めた。読み始めてまだ数十ページだけれど、ここまでの感想を述べる。

 

白状すると、俺は三島由紀夫の小説はあまり読んだことがない。『小説家の休暇』を始めとして、その評論は随分と読んで、感銘を受けた。こんなに頭が良い人は見たことがないと、俺が言うのも烏滸がましいが、そんなふうに思って読んでいた。

 

そして、今、こうやってその小説を読んでみると、小説というのは改めて恐ろしいものだと思う。そんなに頭の良い、骨組みのすべてを透徹な理論で組み上げて行くような人でも、小説を書くと、こんなにも…なんというのだろう…露わなのだ。恥ずかしいほど露わに、自分を曝け出してしまうのだ。

 

どこがどのようにという指摘は、俺はしない。言葉の選び方のひとつひとつ、そこから指し示される方向性、進んで行こうとする先、そういった諸々の全体から滲み出てくる彼の恥部だ。

 

三島由紀夫が手綱を取り、ねじ伏せているはずの「小説」は、それ自体で、彼の思惑を離れて、自在にその活動を始めている。ここから見るとそんなことが感じられてきた。

 

恥ずかしくて、だからこそ「人」というものが立ち現れるのだ。俺は、小説というものの底知れなさ、奥深さを感じている。

 

 

豊穣の海

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三島由紀夫の『豊穣の海』が読みたくなった。折角だから本字の歴史的仮名遣いで読みたいと思った。となるとおそらくは全集を手に入れるのが最も手っ取り早いのではないか。

 

だからと言って、6000円以上する本を、ほいほいと買い込むだけの余裕はない。かといって図書館で借りたとして、2週間で読み切る自信はない。それに兼好法師も「家は借りて住め。本は買って読め」と言っている(らしい)。

 

以前に読んだ時は、新潮文庫で読んだ。家にもそれしかない。ゆっくりとこの「読みたい気持ち」を育てて、その間に金を貯めよう。

 

何故に今更『豊穣の海』なのかは秘密だ。

 

あと何回

雑感 写真

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日差しが夏のものになってきた。あと何回夏を迎えることができるのだろう…と書いて、その後に、「大英帝国は」とか、「EUは」とか、「この国は」とか、とにかくなんでも大言壮語な名詞を付せば、なにやら批評的なことを言ったような気になることが分かった。

勿論、この詠嘆の対象を俺自身に向けることはない。俺は「首が飛んでも動いてみせるわ」という立場だからだ。